樋口円香に関する思考という名の自分語り【W.I.N.G.編~白いツバサ~part3】

 

【定型文】このブログは自分の思考を文章に起こすためのものです

 

 

ほとんど自分語り…以下略

 

続きです。ついに来ました。

書き始めている今も自分がどうしたいかはっきりしていません。

怖い。

 

これは僕の話なんですけどぉ!

これは僕が思ったってだけなんですけどぉ!

別に樋口の心情をわかった気になってる訳じゃないんですけどぉ!

共感とかシンパシーとか言ってるのも樋口にとっては迷惑で嫌な感じがするかも知れないんですけどぉ!とかいうのも既によろしくないんでしょうけどぉ!!

 

……よくないが、よし。

 

 

共通コミュについて

バウンダリー

まだ大丈夫。まだ。

 

選択肢による変化を除けば

・事務所に向かう樋口に会ったよ

・ファンの子に会って応援されたよ

・予定にないけどレッスン室へ向かったよ

の流れです。

 

樋口が鍵をわざわざ借りてレッスン室で自主練習する理由はなんでしょうね。

例えば““僕だったら“という意味もない想定と想像をしますと…

・期待されてしまったから

・出来ないところをそのままにしておけないから

・アイドルとして振る舞う自分が鏡にどう映るか、誰もいない時に確認したかったから

 

とか。わからないですけどね。

 

f:id:ashito:20201104021732j:plain


選択肢。どれも個人の領域に踏み入った感覚がしました。

 

バウンダリー。境界線。

自分に対してアクションを起こす他者をどの程度許容するかのガイドライン

誰かを尊重するのなら自分との違いを認識し、適切な距離が必要ということみたいですね。

他者を理解できなくても許容できなくても相応の線は引けます。

人によって上手い下手はありそうですけど自然とやっていることなんじゃないでしょうか。

 

哲学や精神分析に明るくないんでバウンダリーWikipediaを鵜呑みにしてます。

ジャック・ラカンって人はこの境界線がピラミッド型に階層化してるとか言ってるんですか。

へー。考察とかしないんで全然わかりませんね。

この人が発表した鏡像段階論とか全くわからないです。    

 

 

 

 

二酸化炭素濃度の     

 

…………僕は。

僕はこの話を見た時からずっと心をそこに残しています。

 

何がそんなにと言われると、おそらく説明しても他の人にはそこまで気にならないようなことだと思います。

そもそも。

言葉で説明しないと伝わらないのに、言葉だと伝わらないんです。

 

初めて読んだ当初は友人たちに説明ではなく、心をここに残して来たことだけを必死になって伝えてみたりもしました。

必死にめちゃくちゃ刻みつけた結果、呪い呼ばわりされました。

その節はすみません。

 

それはさておき、その時友人の1人が

「『プロデューサーやオーディションの場にいた人たちが熱意を持っていて、それによって形成される雰囲気が樋口にとっては苦手』っていう考察をどこかで見たよ」

と僕に教えてくれました。

当時の記憶なので、もっと別の言い方をしていたかも知れませんけど。

 

結果的に僕が思ったことも分析して明確にしたらそのような言葉になるのでしょうか。

その時は

「そんな考え方もあるんだ」

としか感じなかったので、そうじゃないと思いたいんですけどね。

 

 

僕が感じたのは比喩表現ではなく

もっと直接的な──

f:id:ashito:20201105034104j:plain

────空気の話です

 

 

 

 

 

……少し話は逸れますが、泣いている人と同じ空間にいた経験はありますか?

全くないってこともそうそうないと思いますけど、その中でも

「自分に無関係なことではないけれど、自分は感情に波風が立っていない」

ことを自覚できている状態はどうでしょうか。

 

教室で先生に怒られたクラスメイト

緊張でパニックになっている発表者

試合や大会で負けたのが悔しい選手

達成感で喜ぶ成功者

感動で震える傍観者

 

最近のことだけでなく、昔の思い出か何かに思い当たることはありましたか?

 

人が泣くのにはいろんな理由があります。

共感できて見ているだけでも目頭が熱くなることもあります。

それでもどこか冷静な目で見ている自分を自覚する瞬間はありませんか?

 

これは僕が思っているより世間一般の該当者が多いのか少ないのか本当にわからないことです。

 

無感動なわけでも思いやりに欠けているわけでもないと思います。

感情移入だって人並み以上にしている気がしています。

泣いている人を見て何も思っていないということではないんですけど、それでも僕は

「その場にいるのに自分がまるで遠くにいる人のように感情が凪いでいた」

光景をいくつか思い出せます。

 

 

そして、僕はその空間が苦手でした。

 

 

……これはかつての僕の話です。

樋口円香に全く関係のない、記憶の隅の僕の話です。

コミュの画像が貼ってありますが、その樋口の声を聞いた時に思い出したってだけです。

樋口がそうだとは思っていません。

 

 

 

息苦しいんですよ。

泣いている人と同じ空間にいるのって。

空調がちゃんと効いていたとしても空間が狭ければ狭いほど苦しい気がしてました。

 

実際にそうではないと思いますがその空間にいると酸素が減ったような錯覚がして、思考がボヤけて来ます。

思考が不明瞭に曇ると今度は自分の外に冷静な自分が立ち、僕自身を含めて空間を傍観します。

それがとてつもなく嫌でした。

 

泣くほど緊張したり負けて悔しがっている人が目の前にいるのに、無事に終わったり勝ったくせに平気な顔をしている自分が見えるんです。

 

もっと嫌なことに、僕は自らその場を離れようとしないんです。

その空間からもそうですし、勝ち負けや優劣が存在する世界からも自分からは立ち去らないんです。

空間からも世界からも外に出れば息苦しさから解放されることはわかり切っているのに誰かが終わりを決めてくれるのを待っていたんです。

 

f:id:ashito:20201105053345j:plain

 

 

 

何故なら

狭い世界では自分を優秀だと勘違いできる余地があったから。

 

は自分に価値を見出せました。

心は平穏無事でした。

 

酸素が必要で必死に呼吸をしようとしている人を横目に、無くても別の空間で生きていける僕は誰かが吸えたはずの酸素を吸って二酸化炭素を吐き出したんです。

 

そんなことを考えてる人間が通用する世界は大したことないし、そうじゃない誰かが泣かなきゃいけないのは何かが間違っている。

と思ったとしても、どの口が恥知らずにも言えたんでしょうか。

 

f:id:ashito:20201105053458j:plain

 

努力が足りていないのに成果がもらえる罪悪感と、罪悪感を覚えること自体が努力する人に対する侮辱に当たることを自覚していたんです。

 

僕は自分が嫌いでした。

 

 

 

 

 

 

 

こんなところですかね……

僕がこのコミュを読んだ時はゆっくりと大きな杭が僕に刺さった感覚を記憶しています。

 

……こうやってずーっと書いているとまたおかしくなってしまいそうですね。

伝わるかどうかもわからないし、僕が思ったことも本当にこうだったのか自信がなくなってきました。

 

変で恥ずかしいやつだと思われないか不安です。

 

こうやってまとめて見ると流石に思春期特有の考えすぎと言うか自己陶酔に陥っていたんだと思いますけどね。

当時は本気で恥知らずで嫌な奴で自縄自縛で自分勝手なくせに生き辛そうにしてました。

 

 今はそんなことはないはずですけど片鱗がたまに顔を出すからこんなことになっているんでしょうね。

 

 

 

めちゃ疲れました。

 

part4に続きます 

 

 

 ちなみに次のコミュの時に書くつもりですけど、こんな感じに自分の中で既にいっぱいいっぱいだったんで誰かに期待するのもされるのも嫌でした。

これは未だにそうです。

 

あと当然ですけど僕も人の子なんで、結局こんなこと考えててもどこにでもいるような、なんでもないような存在に落ち着きました。

それはそれで安堵と苦悩した記憶がありますけども。

努力もせずに出だしの慣性のみで走ってたら失速して追い抜かれますよね。