「流浪の月」を読んで
流浪の月という小説を頂いたので読みました。
せっかく頂いたので感想を残しておこうと思います。もしかしたら10年前に読んだら、10年後に読んだら、また別の感想が出たのかも知れません。そういった話でした。
※嘘です。書き終わってから読み直してますけど多分僕は10年前も10年後もおんなじことを思った気がします。そういう人間でした。
先に書いておきますが、あまり気分の良い感想を記述しないと思います。気に障ったらすみません。既に読んだ人の気持ちに水をさしたくないので、ちょっとでも嫌なこと書いてるなと思ったらこの感想をとじて忘れてください。
あなたはあなたの思ったことを大事にしてください。
そんなに長くならないと思います。
※ここの文章は後から追記しています。書いてみると作品の感想とも言えないものになってます。しかもそれなりに長い。あなたの益にならないことだけは確かです。
読んでいて思ったこと。
嫌、でした。
率直に言って。読んでいる間は一貫して。
決して読むのが辛いとか、この状況キラいだなとかそういうわけではなく。
自らの未熟さを晒すようで苦々しく思うのですが、正直に書きます。
普段は「何を思うのも自由だけど、それが行動や言葉に出たら怖いぞ」と内心で抱えてるつもりですが(実際は全然そんなことなくて人を嫌な気持ちにしてばっかりかも)、
本当は差別も偏見も僕の中にあります。人を下に見ることもあれば、最適解を選ばない人に苛立ちを覚えます。自分を棚に上げて勝手に。
そうです。この小説を読んでいるときに感じた嫌なこととは
・自覚しているはずなのに最適解どころか明らかな悪手を取り続ける登場人物たち
・それに嫌さを感じる自分
なんです。
二つ目に関しては正確に言うのであれば、既に自覚していたことなので「迷惑をかけないよう静かに影に置いていた醜い自分を白日の下に晒されたような気分」が、嫌なんでしょうね。
最悪です。軽蔑されて然るべきです。
軽蔑されるから人に迷惑かけないよう影に置いたのに、と思うことすら自己愛が透けていて最低です。
どんな時も正解を出せる人なんているわけないんです。
理性でわかっていても感情が身体を操作するなんて誰にでもあることです。
家内更紗のように言った方が良いことを言えない人。
中瀬亮のようにそんなことしても事態が良くなるわけないのにしてしまう人。
佐伯文のようにそのままでは互いにとって良くない状況になるとわかっていて何もしない人。
名前のない誰かのように自分がされたら嫌なことを他人にしてしまう人。
努力が足りない?考えが足りない?理性が働いていない?
感情なんてそこを越えたところで動くんだからそんなことが意味がありません。
当事者でなければいくらでも綺麗事や正論をぶつけることができるんです。
そんなことはわかっているのに僕は苛立ちを覚えるんです。
しかも影に置いている僕は「誰しもそうであることがあるのだからそんなことを思ってはいけない」なんて建前を立てることすらせずに、正しくなくともそう思っているのは否定したくないと開き直っているのです。
書いていて思ったのですが、苛立ちを覚えると同時に怖いのだと思います。
感情に支配される状況や感情に支配されている人と対面することを。
友情以上の感情を人に抱きたくないし、抱かれたくないから醜い自分を許していられるみたいです。
こんなこと知りたくなかった。
そういえば昔から怒られるの嫌いで、ずっとずっとそうだったな。
嫌なことを思い出しました。
こんなの作品の感想と言えないですね。
それすらできないのか。
あと最後にもう一つ嫌なこと。
作品後の解説、最後の文。
「凪良ゆうの小説を読むことは、自分の中にある優しさを疑う契機となる。その経験は、本当の優しさを知る一助となる。」
ですって。
「みんなはどう思ったかな?」
「あなたの誰かの相談に乗ってあげたいという気持ち、無理矢理じゃないかな?」
「そっとしておくことが優しさの時もあるよね!」
「よく考えてみんなで話し合ってみようね、誰かの意見を否定しちゃダメだよ!」
勘弁してほしい。
本気でそう考えていて「優しさ」とは何か知っていて、生きていける人がいたら僕は怖いと思う。
この小説を読んで
「本当の優しさってなんだろうね」
「人に自分の“普通“を押し付けないようにしよう」
「〇〇の気持ち、わかるな」
と感じる人を僕は「偉いね、嫌だな」って思う。
嫌だなぁ。